独創性と想像力(創造力)のない日本人にとってパクリは重要な文化

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日本人は他の先進国の国民と比べると、独創性や想像力(創造力)が著しく欠如しているとよく言われる。ここではそのことを悪い意味として捉えるのではなく、想像力が著しく欠如していることが、時としてプラスに働くこともあるということを、日本人が如実に証明している歴史的事実を探っていきたい。日本人には確かに独創性の欠片もないことは厳然たる事実なので認めざるを得ない。しかし、十八番である他国のコピー(模倣)を最大限まで活かして、他国が発明したものを日本独自に改良することで、世界第二位の経済大国まで経済を伸してきた過去がある。想像力の欠如は時として致命的ではあるが、それを補うに余りある能力が日本人にはあったおかげで、明治維新以降の怒涛の拡大政策において、日本は救われたとも言える。結果的には破局的な結末を迎えるのだが、少なくとも明治維新直後の極東の小国から、1943年には世界に冠たる大帝国に成り上がっていたわけだから、奇跡的急成長と言っていいのではないだろうか。

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明治維新以降は欧米のコピー

欧米では1800年代に入ってから急速に国内に鉄道網が整備され始めていた。当時の世界のこういった現状を鑑みても、時代遅れの江戸幕府の温存は相当難しかったと思われる。1853年のペリー来航を契機として、その翌年脅されて締結させられた日米和親条約を皮切りに、諸外国との間で締結させられた不平等条約が、諸藩(特に長州)の尊王攘夷思想に火を付けてしまったことで、江戸幕府の寿命を著しく縮めてしまった。産業革命による欧米列強の拡大主義(帝国主義)が、日本にとっては元寇以来の脅威となりつつあった。明治維新以降の日本は近代化を目指して富国強兵政策に走るのだが、ここからあらゆる物を欧米からコピーする文化が始まったと言っても過言ではないだろう。戦国期の火縄銃の量産から既に始まっていたとか、元々大陸の影響が強いとか、世間には様々な意見があるようだが、少なくとも江戸時代は欧州からの影響を排除しようと務めていたわけだから、そういう意味では明治維新以降の欧米に見倣って国を変えていくやり方は、江戸時代の鎖国政策(海禁政策)とは180度の政策転換だと言えるので、明治維新以降の文明開化や富国強兵という考え方が日本を根底から変えたと言ってもいいのではないだろうか。日本人の独自性は明治以降消滅したと言えるのかもしれない。その逆もまた真で、独自性を廃することに成功したからこそ、日本が列強の仲間入りをすることが出来たとも言える。江戸時代気質のままだったならば、日本が他の列強諸国と肩を並べるほどの強国にはなれなかったはずだ。日本人の変わり身の速さはある意味忍者的とも言えるだろう。

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太平洋戦争後はアメリカのコピー

第二次世界大戦でアメリカ軍(連合国軍)に完膚なきまで徹底的に叩きのめされた敗戦国日本は、以降戦勝国アメリカ(連合国)の占領下に置かれることになる。当時の日本の指導層は、General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers, GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策により、戦争放棄と民主主義の理念を徹底的に叩き込まれることになる。敗戦間もない日本人に平和的で民主的な憲法が作れるはずもなく、憲法までもがアメリカ製であった。第二次大戦の敗戦国の日本は独立までの6年半 1アメリカの庇護の下、戦争で疲弊しきった国力を回復していく事になる。大東亜戦争とは一体なんだったのか?という話である。1948年末から始まったドッジ不況に喘いでいた日本にとって、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争はまさに神風であった。アメリカは日本を朝鮮戦争における兵站基地・橋頭堡・修理工場とすべく、大戦中既に時代遅れになっていた日本の工業を近代化させ、特に日本人に大量生産方式と品質管理といった概念を徹底的に叩き込み、短期間の間に見事日本を連合国軍の軍需工場に仕立て上げたのであった。日本にとっては特にそれまで輸出入を禁止されていた品目の多くが解禁になり、戦後禁止されていた重工業も解禁され、さらに平和条約の締結により賠償金が免除されたのが追い風となった。全ては日本の共産化を防ぐと同時に、日本をソ連に対する東アジアの防波堤にするための、アメリカの国防戦略の一環に過ぎなかったのだが、もちろん、その当時の日本が、アメリカの過大な期待に応えるだけの、高度な技術力や学習能力のある勤勉で職務に忠実な優秀で有能な労働者を大量に抱えていただけではなく、戦時中の鬼畜米英思想から超親米へと神業的な変わり身を果たすことができたのが非常に大きかった。日本人の忍者並みの変わり身の早さは、良くも悪くも主体性の無い国民性の象徴とも言えるのかもしれない。権威や権力に対し異常なまでに忠実で、トップに右に倣えしか出来ない日本人の特性なのだろう。日本が目標としていたアメリカではあったが、80年代前半までに日本企業はそのアメリカの家電産業と自動車産業に壊滅的打撃を与えるまでに成長、アメリカは自国産業の保護の為にブラザ合意でドル安政策を容認、以後2年間で1ドル240円から120円まで円が高騰したことにより、日本はバブル経済に拍車がかかる一方で、産業の空洞化が急速に進んでいくことになる。

参考サイト朝鮮戦争と日本-日本の役割と日本への影響-

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バブル崩壊以降は独自性を模索

1990年代に入ると、日本経済はアメリカ経済を追い抜くのではないかと囁かれ始める。冷戦終結も相俟って、アメリカにとっては日本脅威論までもが台頭し始める(A declining Japan loses its once-hopeful champions)。かつてはアメリカで冗談のように、「アメリカ人はそのうち日本人の下で働くようになる」と言われていたほどで、1992年にブッシュ大統領が来日した際、日本にアメリカ製品を売り込む(市場開放を要求する)名目で数多のCEOを引き連れて来たことはあまりにも有名な話である(BUSH’S ASIAN TRIP RECAST TO STRESS JOBS AND EXPORTS)。そんな日本ではあったが、1993年から始まったクリントン政権下での日本封じ込め政策により、以後失われた20年を経験することになる。クリントン大統領の露骨な日本軽視(蔑視)、中国重視の外交姿勢は当時、Japan bashing ならぬ Japan passing, Japan nothing と皮肉られていた。クリントン政権の8年間で日本が衰退し、中国が頭角を表すのは当然の結果だったと言える。日本がひとまずアメリカに追い付いたことで、模倣する相手(国)がいなくなったのも致命的だった。日本は独自性を模索していくしか道が無くなり、試行錯誤の迷走を続けた結果、自動車産業以外は国際競争力を失っていた。スバルの大躍進、日産やマツダの完全復活、トヨタ自動車の自動車生産数世界1位に見られるように、何故自動車産業にできたことが、他の産業ではできなかったのかは、今後の研究テーマになってくるはずだが、超円安を前提に国産にこだわり続けた企業が衰退するのは当然とも言える。日本の製造業全体の海外生産比率は24%(2014年度)なのに対し、自動車産業だけを見れば70%に達しているのだ(パーツは別の話)。この違いが明暗を分けているのは明らかで、日本の製造業は体力のある間に海外移転を進める以外に生き残る道は残ってはいない。それが人類史上未曾有の超少子化・超高齢化社会を迎える日本の悲しい現実となっている。超円安だから国内回帰などという、安直で数年先さえも見据えていない愚の骨頂を演じることだけは避けなくてはならない。若者の多い将来性のある国へ進出するべきなのだ。

  1. 第二次世界大戦を名実共に終結させるために、1951年9月8日、日本や米国など49カ国がサンフランシスコで調印した、世に言うサンフランシスコ平和条約である。この条約が翌年4月28日に発効したことで、日本の主権が回復し、独立を達成したのであった。
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