終戦記念日を前に、日米開戦の原因を探ってみる

日本が徳川幕府による天下泰平の世から、再び戦争に明け暮れる道を選んだのは、外圧のせいだった訳ですが、全ては自国防衛のためでした。欧米列強による侵略・植民地化を防ぐためには、大陸進出は止むを得ず、清、ロシアの南下政策は日本にとって脅威であり、朝鮮を緩衝地帯にする事は避けられなかったと言っても決して過言ではありません。

そもそも1853年のペリーの黒船来航、武力をちらつかせた恫喝による開国強要が無ければ、日本が侵略戦争をする事もなかったかもしれません。とは言っても、日本が泰平の世にのほほんとしている間に、欧米列強と日本の軍事力は絶望的な程に差がついていた事も事実で、日本が他国によって侵略され植民地化されていた可能性も十分にありました。

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南北戦争後のアメリカ

1853年当時のアメリカ自体がとんでも国家でもあったので、日本にとっては悲劇としか言いようがありません。この頃のアメリカはならずもの国家で、まさにやりたい放題でした。拡張政策にひた走っていて、米墨戦争によって広大な領土を得た後は、太平洋へ目を向け始めていました。中国との貿易を本格化させる目的でペリーは日本に開国を迫ったわけですが、1958年に日米修好通商条約(いわゆる不平等条約)を締結した僅か3年後に、国を二分する内戦(南北戦争)が勃発しています。4年間(1861~1865年)にわたる戦乱で、両軍合わせて何と62万人もの兵士が犠牲になっています。この内戦により、アメリカの拡張政策は数十年遅れる事になるのですが、それが日本にとっては幸運だったと言えるかもしれません。

内戦後のreconstrution(再建、1866~1877年)の最中、南北戦争終結後の僅か2年後の1867年に、ロシアからタダ同然でアラスカを購入しています。西部開拓を急ピッチで進める新入植者達とインディアンとの間の紛争が絶えず、多くのインディアン達の先祖伝来の土地が略奪されていくことになります。この間、大陸横断鉄道も開通し、米西部の鉄道網が着々と整備されていくことになります。武力により、ネイティブインディアンから広大な領土を獲得したアメリカは、その後再び海外への拡張政策を推し進めることになります。

アメリカ帝国主義

内戦、インディアン戦争の後、大陸横断鉄道の完成と、ゴールドラッシュによる移民の激増で西海岸が急速に発展、念願だった太平洋への進出が1898年のハワイ併合、米西戦争の圧倒的勝利による、スペイン領フィリピンとグアムの獲得を皮切りに、いよいよ本格化していくことになります。まず、アメリカの帝国主義的植民地政策により、1899年に米比戦争が勃発します。戦争は1902年に終了しますが、局地戦が1913年まで続きます。

アメリカの国を二分した大規模な内戦や、インディアン戦争は、日本にとっては神風だったとも言えます。日本が開国しない場合は、アメリカは、武力による日本侵略も視野に入れていた事を考えると、後のフィリピンの例を見れば、米日戦争が勃発していた可能性も十分考えられるからです。アメリカも、1895年の日本の日清戦争勝利、1905年の日露戦争勝利により、武力による日本への侵攻は無理ゲーだと悟ったのは間違いないでしょう。

アメリカ帝国主義と日本の帝国主義の衝突は、アメリカのフィリピン統治により、ある意味、決定的になったとも言えます。もちろん、ノモンハン事変さえ起こらなければ、日米戦ではなく、日ソ戦が起きていた可能性が高いので、必ずしもそうとは言い切れないのですが、何れにしても、太平洋におけるアメリカの領土拡張政策は、日本の日露戦争勝利により歯止めが掛けられたことだけは確かです。

日清戦争と日露戦争

日本はアメリカの外圧により、日米修好通商条約締結後わずか10年足らずで、265年間続いた徳川政権があっけなく崩壊してしまうのですが、明治新政権による富国強兵政策と、日本人の驚異的な模倣能力、強靭な精神力、卓越した指導力、涙ぐましい愛国心等により、奇跡の日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)のW勝利を収めます。

アメリカに世界初の大陸横断鉄道が開通した年(1869年)、日本は戊辰戦争中だったわけで、つまり、それだけ技術力に開きがあったという事です。日本の鉄道開通が1883年という事を考えれば、その僅か21年後に大国ロシアを敵に回して勝利した事は奇跡としか言いようがなく、結果的には、その事が日本を増長させてしまい、身の程を弁えない、身の丈を超えた、拡大主義に走らせてしまうのですが、驕る平家は久しからずという言葉の重みを知るべきでした。

アメリカはこの時拡大政策を邁進中で、フィリピンを武力占領、サモアを武力をちらつかせて占領、太平洋の島々を次々に占領していっていました。太平洋での地歩を固めたアメリカは中国への進出を目論んでいて、声高に機会均等を叫んでいました。しかし、辺境の地での他の列強諸国との武力衝突は避けたかったので、日露戦争はまさに渡りに船で、日本をロシアの緩衝国にして、満州鉄道の日本との共同経営を目論み、日露の仲介に乗り出します。要は漁夫の利を得ようとしただけで、日露戦争が継続することで、日本が敗北するような事だけは絶対に避けなければならなかったというのがアメリカの本音です。ロシアの強大化を日本を使って牽制しつつ、満州利権も美味しく頂くという、アメリカ式合理主義でもありました。

中国利権の奪い合い

西部開拓は要は、インディアンから土地を武力で収奪する行為であり、インディアン戦争に目処が付いた後も、西進政策を続け、ハワイを併合、グアムとフィリピンをスペインから奪い、サモアやウェーク諸島も自国領に編入し、西進政策の終着地でもあった、清への足掛かりをつけることが、当時のアメリカにとっては急務でした。

アメリカにとって、清(中国)は唯一のラストフロンティアであり、その莫大な利権は喉から手が出るほど欲しかったはずです。清は日清戦争敗北後、眠れる獅子から眠れる豚に格下げされた事により、列強の草刈り場となっており、思いっ切り出遅れたアメリカが、何とか失地回復をすべく、open door policy(門戸開放政策)を各国に訴えかけていました。要は俺にも清の利権をよこせという非常に虫の良い話だったのですが、しかし、たとえ動機は不純だったとしても、日露戦争終結に尽力してくれたセオドア・ルーズベルト大統領の顔を立てる必要もありました。小村寿太郎が、桂・ハリマン協定に反対するのも無理がなかったという意見もありますが、それはあまりにも近視眼的思考で、アメリカ大統領の顔を潰すような真似はすべきではありませんでした。この当時国務長官だったタフト(桂・タフト協定の人)は後にアメリカ大統領に就任していて、日露戦争後の反日感情の高まりが、後に日米関係を修復不可能までにこじらせてしまい、日本人にとって最悪の悲劇へと導いてしまうことになります。

そもそも、日本にとっては満州鉄道をアメリカと共同経営した方が、色々な意味で得だったことも確かです。超大国アメリカは当時、パナマをコロンビアから独立させて、パナマ運河を建設中で、太平洋貿易を本格化させる途上でもありました。日露戦争に勝利した日本が傲慢になり過ぎて、アメリカという超大国と互角の立場のような錯覚に陥ったことが、日本の悲劇の始まりと言えるかもしれません。日本のその後の凋落は、驕りと慢心が身を滅ぼす典型例でもあります。己を知り身の程をわきまえることが、今の日本人にも求められています。

パナマ運河

1903年から、フランスが一度は挫折したパナマ運河の工事を、アメリカが再開したわけですが、太平洋貿易を本格化させるこの超大掛かりな工事は、当時のアメリカの技術力と国力を象徴するものでもありました。日本はこんな化物みたいな国とは仲良くすべきであり、満州利権の独占でアメリカと仲違いした事で、日本が得たものは無いに等しかったかもしれません。それどころか、失った物の方がはるかに多かったと言えます。

パナマ運河の工事には日本人技師も参加していたのですが、日米関係の険悪化から、1911年に完成を見ること無く、急遽本国へ帰国しています。パナマ運河の歴史

運河建設に携わった唯一の日本人技師がいた。その名は青山 士(あおやま あきら)。1904年より1911年までの約7年間、パナマ運河建設に携わっている。同人は静岡県の出身で、1878年、禅宗の僧侶の三男として生まれた。1903年当時26歳の同人は東京帝国大学土木工学科卒業時に恩師廣井教授より米国がパナマ運河建設のために技術者を募集していることを聞き、同教授の知人であるコロンビア大学のバア教授(パナマ運河委員会の理事を兼任)に紹介状を書いてもらい、同年8月単身米国に渡航した。シアトル、ニューヨーク滞在の後、翌年6月ようやくパナマに到着した。当初は末端測量員として、熱帯ジャングルの中でマラリアに罹患し命を落としそうになりながらもチャグレス川周辺の測量を続け、その後、大西洋側クリストバル港建設事業に参加し、ガツン閘門の側壁の設計にまで携わっている。同人は、パナマに来た当初は末端測量員(ポール持ち)であったが、短期間の内に昇進を続け、測量技師補、測量技師、 設計技師を経て最終的にガツン工区の副技師長となっている。手際よい測量の腕や勤勉さ、有能さからパナマ運河委員会の彼に対する勤務評定は常に”Excellent”であった。

青山氏は、日米関係の悪化を察知し、運河完成を待たず1911年に日本に帰国した(休暇願を出して帰国し、そのまま戻らなかった。)。帰国後、内務省の内務技師として採用され、当時頻繁に起こっていた河川の氾濫を防ぐため、数々の治水工事(荒川放水路開削、鬼怒川改修、信濃川大河津分水改修等)を 手掛け、当時日本では珍しかったコンクリート工法を採り入れるなどパナマ運河で学んだ最新の土木技術を十分に発揮した。荒川放水路の岩淵水門工事には主任として携わり、パナマでの経験を生かし基礎地盤を20m掘り下げるなど当時としては画期的な工法を採用しているが、その発想の正しさは、完成後に起こった関東大震災の際、ビクともしなかったことで証明されている。その後、同人は内務技監まで昇りつめている。信濃川大河津分水記念碑には、青山氏の直筆の文字が日本語と万国共通語であるエスペラント語で刻まれており、「万象に天意を覚える者は幸いなり 人類の為 国の為」と刻まれている。

1人の日本人技師が7年間、パナマ運河建設に携わった事で得た技術は、その後の日本の発展に大きく貢献したと言えます。日米関係さえ悪化しなければ、この日本人技師も最後まで、パナマ運河完成を目撃することができ、さらなる技術習得をできていたはずです。

満州鉄道利権をアメリカと分け合うことで、アメリカの技術力を日本は吸収できたし、アメリカの莫大な資金力で満州は発展し、日本経済も潤っていたのは確かでしょう。さらにアメリカとの関係が良好なら、多くの優秀な日本人がアメリカに渡り、そこでさらに有益な知識や新技術を習得でき、日本のさらなる発展に貢献できた可能性があるのです。

反日感情

アメリカの反日感情、あるいは、反アジア感情は相当根強かったようです。特に日本人移民に対する嫌悪感は顕著で、ルーズベルト大統領も頭を悩ませていたみたいです。ルーズベルト大統領は日本との戦争の可能性を一番恐れていたようで、米比戦争は形式的には終結していたのですが、実際はゲリラ戦に手こずり、増援を送る海軍力も有していなかったっぽいです。なので、ルーズベルト大統領は、日本政府を怒らせる、カリフォルニアの日本人移民に対する差別的な侮辱行為に苦慮していました。

ルーズベルト大統領は、アメリカ人の日本人嫌いの理由を、劣等民族として日本人を見ているからではなく、アメリカ人が日本人を、自分たちとは全く異質の人種と見ているからだと言っていますが、つい最近まで丁髷を結って、半鎖国状態を200数十年にわたり続けていた、後進国なわけですから、そう思っても無理はありません。

名を捨てて実を取る

日露戦争後は、アメリカと良好な関係を築くことが日本の国益だったのですが、近視眼的な考えが日米関係を悪化させてしまい、その後も何度か関係修復を試みますが、中国問題が足枷となり、両国の関係は悪化の一途をたどっていきます。

日米戦争の原因は、1880年代までアジアの後進国だった、極東の弱小国家が、欧米列強を真似ることにより、列強の仲間入りを果たしたことで、すっかり慢心してしまい、己の国力を一切省みること無く、アメリカという超大国と対等に渡り合おうとした無謀が産んだ結果と言えるかもしれません。名を捨てて実を取っていれば良かったのです。

今の日本も、アメリカの属国に過ぎない、第二次大戦の敗戦国家という自覚を持って、中国や他のアジア諸国で行った蛮行を恥じて心から詫び、謙虚な心で他国と接することが求められていて、名を捨てて実を取る必要があります。良好な外交関係を築くことが、自国を発展繁栄させる唯一の方法ということを、日本は先の大戦で嫌というほど学んでいるはずだからです。

参考サイトJapanese-American Relations at the Turn of the Century, 1900–1922
参考サイトTHEODORE ROOSEVELT : The Threat of Japan

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