ノモンハン事件ほど世界史に影響を与えた国境紛争はないのではないでしょうか。という事で今日は海外サイトを参考にノモンハン事件について調べてみたいと思います。日本ではNomonhan Incident、ロシアでは、Battles of Khalkhin Gol (ハルヒンゴルの戦い、ハルハ河の戦い)と言われているこの戦いが始まったのは、1939年(昭和14年)5月11日でした。最初のうちはモンゴル軍と満州国軍による国境沿いの些細な小競り合いだったのですが、いつの間にか、ソ連と日本を巻き込んだ大規模な武力衝突に発展してしまったのです。日本としては日中戦争が泥沼化していたので、日ソ全面戦争に突入することだけは何としてでも避けなければならなかったみたいです。
ノモンハン事件(ハルハ河の戦い)
The Forgotten Soviet-Japanese War of 1939 このサイトを参考にさせてもらいました。
まず、この戦いは悪名高い辻政信(満州を占領していた関東軍の主戦派閥長)によって引き起こされたようです。1939年5月、関東軍は懲罰的作戦行動に出ますが、ソ連軍の反撃で壊滅的打撃を受けてしまいます。この予想外の敗北で完全に面子を潰された軍上層部は、6月~7月にかけて戦いをエスカレートさせていきます。先ず、モンゴル領内にあるソ連軍のタムスク飛行場を空襲、さらに投入兵員数も師団単位(万単位)にまで肥大化させていきます。日本軍の怒涛の波状攻撃をソ連軍は良く凌ぎ、そのソ連軍の善戦ぶりに苛立つ関東軍上層部は、さらに事態をエスカレートさせていきます。彼等は、戦線を拡大させていけば、モスクワが引き下がると考えていたようですが、しかし、すぐにその考えは甘かったということを痛感させられることになります。
8月に入り、6月から対日線の指揮を執っていたゲオルギー・ジューコフが前線に増援を送る一方で、スターリンは密かにヒトラーとの同盟を模索していました。ドイツ外相のリッペントロップがモスクワへ到着するやいなや、スターリンは、後の赤軍元帥であるジューコフに対し、日本軍への総攻撃を命じます。日本軍がソ連軍とソ満国境で激戦を繰り広げている間、日独伊防共協定(ソ連の脅威に対抗するために締結していた)を反故にする形で、8月23日に友好国であったはずのドイツが、事もあろうにソ連と不可侵条約を締結してしまったのです。これを受けて、8月28日に平沼騏一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という声明を残し内閣総辞職をしてしまいます。この当時の日本を取り巻く内外情勢としては、日中戦争の泥沼化により国内では既に国家総動員法が1938年に制定され戦時体制下にあり、ソ連を仮想敵国として相互防共協定を結んでいたはずのドイツが、ソ連と大規模な武力衝突中の日本を裏切る形で、仮想敵国のソ連との間に不可侵条約を締結、これではさすがに安倍ちゃんみたいにお腹が痛くなって総理の職を投げ出したとしても誰も文句は言えないでしょう。
関東軍の独断専行による暴走で始まったノモンハン事件も、圧倒的戦力を有するジューコフ率いるソ連・モンゴル軍の猛攻により、第23師団は壊滅的打撃を受け、これ以上の作戦遂行は不可能と悟った日本は、9月15日にモスクワで停戦協定に調印します。この2日後の9月17日に、ソ連軍は独ソ不可侵条約の密約履行のために、ポーランド領内に侵攻を開始します。
もし日ソ戦が勃発していたら
ノモンハン事変がもし仮に日ソ全面戦争に発展していたとしたらどうなっていたのでしょうか?ノモンハンで作戦指揮に当たっていた辻政信は戦後に、もっと粘っていたら日本が勝ってた、みたいなことを言っていたらしいので、あのまま停戦することなく戦闘を続けていたら、スターリンの方から日本に講和を求めて来ていたのかもしれません。あるいは、そのまま全面戦争に突入していた可能性もあったかもしれません。もちろん、独ソ不可侵条約締結後では、日本が粘れる要素はどこにもなかったのですが、独ソ不可侵条約が締結されていなかったとしたら、日本が停戦を乞う必要性もなかったはずなので、日ソ全面戦争に発展していた可能性も否定出来くなります。
ノモンハンで関東軍が大暴走している間に、日本はドイツに対ソ戦の可能性を少なくとも示唆しておくべきでした。そうすれば、ヒトラーもポーランドと共同でソ連侵攻を考えていたかもしれません。ドイツ、ポーランド、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、イタリア、日本 vs. ソ連という構図を描ければ、1940年以内にソ連を屈服させる事は十二分に可能だったのではないでしょうか。そうなっていれば、少なくとも第二次世界大戦は勃発していませんでした。ノモンハンでの日本軍の大敗は、日独の連携不足が招いた悲劇と言えなくもありません。仮に辻の言う通りに戦闘を継続して日本が日露戦争時のように辛勝していたら、ジューコフは恐らくスターリンにpurgeされていたでしょうし、陸軍も北進論を主張し続けていたはずなので、その後の歴史が完全に塗り替えられていた可能性があります。
北進論、南進論、仏印進駐、三国同盟
ノモンハンでの大敗は、北進論者であったはずの辻を熱狂的な南進論者に豹変させてしまいます。特に1940年6月にフランスがドイツに降伏した後は、仏印進駐論が幅を利かせるようになっていきます。ノモンハンで日本が勝っていたなどという馬鹿げたことを言っている輩もいるみたいですが、北進論者だった辻政信の豹変っぷりを見れば、いかにノモンハンでの惨敗がトラウマになっていたかが分かるはずです。それ以降大規模な国境紛争が起きていないことが、関東軍がいかにソ連軍を恐れていたかを物語っています。
真珠湾攻撃の後で、ヒトラーが3日間悩みに悩み抜いた末に対米宣戦布告をしたのは、ドイツが対米宣戦布告をすれば、日本が対ソ宣戦布告してくれるはず(大島大使によれば)だと思ったからで、実際日本が宣戦布告をしなかった時はかなり驚いたという話まで存在しています(真実かどうかは置いておくとして)。何れにしても、日本がソ連に最後の最後まで宣戦布告をしなかった事が、日本がいかにソ連を恐れていたかを証明しています。全てはノモンハンでの大惨敗が遠因していると言っても決して過言ではないでしょう。
ジューコフは戦後「日本軍は戦車戦に弱かったので容易に勝てた」みたいなことを吹聴していたらしいのですが、その反面「ドイツ軍は装備は優れていたが、日本軍が持っていた真のファナティシズムに欠けていた」のようなことも言ってたとも伝えられています。真偽の程は定かではないのですが、大昔に読んだ本の中にそんなような事が書いてあったことを今でも鮮明に覚えています。ソ連軍との戦闘に敗れた日本は、それ以後、南進政策に切り替えるわけですが、フランス降伏から3ヶ月後の1940年9月23日に、北部仏印に進駐することになります。その4日後の9月27日、日独伊三国同盟を締結するのですが、この一連の動きが日本の命運を決定付けてしまったと言ってもいいかと思います。
参考サイトHitler’s War, the Japan Miracle, and the China Model物量戦と精神論
関東軍のノモンハンでの大敗から日本は何も学ぶことができませんでした。まず、日本軍の装備がソ連軍に比べて劣悪過ぎました。航空戦だけは何とか互角に渡り合うことが出来たのですが、制空権を奪うまでには至らず、その結果の地上戦での惨敗という事になっています。ソ連軍の損害も甚大だったのですが、冬戦争や独ソ戦を見れば分かる通り、ソ連軍は常に損害が異常に多いのですが、ノモンハンに限っては日本と同等の損害なので、日本の大敗とも言えてしまうのです。ソ連軍の圧倒的物量作戦の前に、日本の精神論が敗れたとも言えるこの戦いで、日本は精神論だけでは戦いには勝てないということを学ぶことができなかったことが、後々まで災いしてしまいます。ノモンハンでの戦闘を指揮していた辻参謀は、負けを認めなければ負けない、みたいなイミフな事を嘯いていたらしいので、その精神を貫き通して停戦を乞わずに戦い続けていれば良かったのかもしれません。最も、資源と工業力に乏しかった日本には物量作戦など到底不可能だったので、精神論に頼らなければならなかったという台所事情もあったのですが、それならば、最初から平和的な国際関係を目指すべきだったという意見もあります。しかし、ソ連の脅威は現実にあったわけですし、全ての列強が帝国主義的思想の下、植民地政策を推進していた現実を考えれば、あの当時、平和的国際関係の構築など夢物語でしかありませんでした。そもそも、日本の大陸進出も本来は自衛のためでもあったのですから。