人生は対人関係が全てで、生まれてからその戦いは始まっています。赤ん坊は、親や世話をしてくれる人に気に入られなければ終わりだし、一人っ子は別として、兄弟姉妹の間でも、親の一番のお気に入りになって、経済的、精神的、その他の恩恵を独占しようと切磋琢磨します。幼稚園、保育園、学校においても、そこにいる人間達と、円滑な対人関係を構築することは至上命題です。それに失敗した時は悲惨で、そこで人生が詰むと言っても決して過言ではありません。対人関係は、社会に出てからも永遠に続き、面談、会社、結婚などでの成功は、全ていかに良好な人間関係を構築するかに掛かっています。
人を裁いてはいけない
Though we are taught from an early age not to judge others, we can use our perceptions of others to work toward positive outcomes, both socially and professionally, according to a study from the University of Notre Dame.
私達は、幼少期から、人を裁いてはいけないと教えられていますが、社会的・職業的双方で、良い結果を導き出すために、私達の他者理解を利用できると、ノートルダム大学の研究が示しています。
Recognizing when our understanding of someone differs from that individual’s self-perception and also from how others see that same person can provide important insights into managing those relationships,
我々のある人に対する理解が、その人の自己認識や、他の人達のその人に対する見方と異なることを認識することが、そういった関係を上手く執り成すための重要な知見を与えてくれます。
誰も人は裁けないとよく言われます。聖書にも、本当に罪のない人間だけが、人を裁くことができると書いてあります。聖書では、全ての人間は生まれつき罪人(原罪)であるので、つまり、誰も他人を裁けないことになります。聖書の復讐するは我にありとは、人を裁けるのは神だけで、最後の審判は神が下すという意味です。人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。こうも聖書では言っています。人を裁くということは、自分も人から裁かれることを意味しています。
他者への共感
“Understanding others’ subjective realities can enhance empathy, cooperation and communication and may also influence one’s own opinions,” Solomon says. “This can prompt people to deliberate and even re-evaluate their own views or enable them to influence others.”
”他者の主観的現実を理解することが、エンパシー(共感)、協調性、コミュ力を高め、自分の意見にも影響を与える可能性があります。このことが、人々に対し、自分の意見の熟考、さらには再評価を促したり、あるいは、彼等が他者を感化できるようにしてくれます。”
人が人を裁くべきでないのは、誰もその人の立場や心情を理解できないからで、もし、人が当事者の観点から物事を見ることができれば、その人に対するエンパシーが高まり、そのことで、自分の立ち位置を再認識したり、他者にも共感を求めたりできるようになります。
自分以外の意見も認める
It’s not about determining whose perception is right or wrong. It’s about recognizing that multiple perspectives exist and how that awareness can help inform our interactions with one another.
重要なのは、誰が正しく、誰が間違っているのかを判断することではなく、さまざまな考え方が存在すること認識し、その認識を、我々の互いの相互関係の促進にどう役立てるかです。
この事を、政治のリベラルと保守派の対立に当てはめると、どっちの思想が正しく、どっちが誤りなのかを裁くのではなく、人の意見の違いをお互いに認め合い、全ての国民に益となる、美味いとこ取りをしていくことが重要だということです。それは交渉力でもあり、交渉の基本は、交渉相手をよく知ること、あるいは、交渉相手の立場から物事を考えられる理解力です。全ての人間は、自分の主観的な意見を尺度にして、他者の主観的意見を割り出すので、他者が自分と違ったアイデンティティを有していれば、その意見を認めたくないので、その人を裁いていしまう傾向が強くなります。
彼を知り己を知れば百戦殆うからず
“People’s self-perceptions obviously are going to be skewed,” Solomon says. “What matters is that we’re aware of each other’s subjective realities. I think that sometimes people get along because they mistakenly assume everyone is on the same page. The more insight we have into the discrepancies and views of others makes our interactions legitimate. Ultimately, we don’t want to live in a world where we are deluded.”
”人の自己認識は歪められる運命にあります。大切なのは、我々が、お互いの主観的現実を認識することです。私は、人々が、時として、お互いが同じ意見であると勘違いすることで、うまくやっていけていると考えます。私達が、他者の相違や意見に対するより多くの見識を持つことが、我々の相互関係を確かなものにしてくれます。結局、誰も自分が欺かれる世界には住みたくありません。”
他人がどう考えているかを知るのは困難です。人は人を欺こうとするし、交渉術では、如何に人を欺くかが重要なので、世の中には自分と違う色々な考えがあることを知ることが重要になります。
“The person who has greater insight into an opponent’s identity can, of course, leverage that information in various ways to win,” Solomon says. “Much of life involves interacting with others. As a friend, parent or teacher, understanding someone else’s identity can help that other person feel understood and provide the groundwork for effective motivation.”
”対抗相手の自己認識へのより深い洞察を持った人達は、もちろん、勝利のために、その情報をさまざまな方法で活用することが可能です。人生の多くの場面で、他者との相互交流が絡みます。友達か両親か教師として、誰か他の人の自己認識を理解することが、相手に対して、自分が理解されていると感じさせたり、効果的な動機付けのための下地を提供します。”
相手の気持ちを察するのは至難の業です。空気の読めない奴、エンパシーやデリカシーの欠片もない輩が多い日本ではなおさらで、交渉が、コネや恫喝、quid pro quo(見返り)に基づいて行われるのが常習化しているこの国では、相手の気持ちを察する必要すらありません。例えば、学校で、ある生徒がその生徒自身のことをどう考えているのか、その生徒を他者がどう見ているのか、そして、自分がその生徒をどう見ているのか、仮にAという生徒がいじめられていたとしたら、当然、Aはいじめられたくないし、ほとんどの他者は、Aのイジメを何とも思わないし、そこで、自分自身が、Aに対してどう共感するかが重要になってきます。いじめや差別は人として最低な行為であるという認識があれば、いじめを何とかするための行動を取るだろうし、教師にチクったり、他の生徒たちにいじめは良くないと言い聞かせ、いじめてる奴等のいじめを止めたりできるはずです。正義が自分の側にある時、周囲を動かす力もそれだけ強まります。そういう正義の人になってもらいたいものです。
参照サイトUnderstanding perceptions of reputation and identity offers opportunity, study shows