there is something to be said forの意味・用法

イディオム、There’s something to be said for both ways.を直訳すれば、どちらの側にも語られるべきものが存在するとなります。換言すれば、双方に一理ある(利点がある)といったような意味合いになります。There’s something to be said for it.なら、そのことには語られるべきものがある、それには利点があると言い換えることができます。There’s something to be said for ~ = ~には利点がある(一理ある)と覚えておきましょう。このフレーズが、ニュース記事の中で実際にどのように使われているのかを見てみます。

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There’s something to be said forの用例

It is not my job to police the language of others. This probably explains why I didn’t remark on her comment, showing the disapproval that I felt her response deserved. However, there is something to be said for the overall “dumbing down” of language with respect to campus culture in general. This is not about being right or wrong, but about taking language within a fixed medium and applying it to a different environment — one where it might not belong.

Our generation’s lapses in language

他者の言葉遣いを取り締まるのは私の責務ではない。このことが、彼女のどうかと思われた返答に難色を示しながら、私が、彼女の発言に意見しなかった理由になるかもしれない。しかし、キャンパス文化全般に対する言葉のレベルの全体的な低下には何らかの利点がある。このことは、正しいとか間違っているとかということではなく、固定媒体内の言葉を持ち出して、それを異なる環境(不適切であるかもしれない場)に適用するということです。

there is something to be said for ~は、〜には(何らかの)利点があります。のように訳すと意味が通ります。

授業中の生徒同士の会話の中で、ある生徒が、retweet(リツイート)と返答したことに対して、他の生徒が、その答えに全く驚きを見せなかったことが前文で述べられています。この記事の著者は、授業中に、リツイートというSNS(ツイッター)のスラングを持ち込むのは良くないと嘆いています。この記事の中で語られている、大学における言葉のレベルの低下の利点とは、そのことが正しいか誤りであるかに関係なく、言葉の異文化交流のことを言っています。つまり、アカデミックな環境にとって全くの異文化であるツイッター文化の言語を、キャンパス文化に持ち込むことを指しています。しかし、この著者は、言葉の異文化交流の利点は別として、文化が言葉に悪影響を与えることを好ましく思ってはいません。

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there is much to be said forの用例

there is something to be said forには、there is little to be said for, there is a lot to be said for, there is much to be said for, there is nothing to be said forなどのパターンが存在します。there is little to be said for ~のニュース記事での使われ方を見てみます。

How might we reconfigure our understanding of victory so that it is coupled to provisional rather than final outcomes? This would presumably involve reframing it in partial and contingent rather than comprehensive terms. There is much to be said for this. But above all else, it would reconnect how we think about victory with the realities of modern warfare and a more sober assessment of the kind of goods it can deliver.

Can wars no longer be won?

我々の勝利に対する理解を、最終的勝利にではなく暫定的勝利と結び付けるために、どのようにそれを再定義できるでしょうか? この再定義は、我々の勝利に対する理解を、包括的観点ではなく、部分的・付随的観点で再定義することを、恐らく対象としています。 この再定義には多くの利点がありますが、何よりも、それが、我々の勝利の概念と、近代戦の現実およびそれがもたらしうるもののより冷静な評価とを再び結び付けてくれることです。

There is much to be said for ~ = 〜には多くの利点がある
there is little to be said for ~ = 〜にはほとんど利点がない

記事の説明をすると、近代戦における勝利の概念は、過去の勝利の概念には当てはまらないということを言っています。例えば、第二次大戦は、アメリカを中心とした連合軍がドイツと日本を中心とした枢軸軍に完勝していますが、それ以降の戦いについては、完勝という形での戦争の終結は無くなっています。第一次イラク戦争(湾岸戦争)の場合、イラク軍をクエートから駆逐するという当初の目的は果たしたものの、その後も第二次イラク戦争まで、国連軍によるイラクへの空爆は断続的に続けられ、さらに経済制裁も続けられたので、イラク国内の人的損害は甚大なものでした。最終的に、第二次イラク戦争による地上戦によってサダム・フセイン政権を崩壊させることになりますが、フセイン政権崩壊によって戦争は集結したように思えましたが、実際には、その後も血みどろの地上戦が数年間続いています。さらに、米軍撤退後、ISISによるイラクとシリア領内での戦争が続けられ、その戦いは未だに続いています。逆に、リビアの場合、カダフィー政権崩壊後、アメリカはリビアに対する介入を行っていないので、額面上は勝利ということになりますが、実際は、リビアが内戦状態という事実を考慮した場合、とても勝利とは言えない状態になっています。近代戦においては、勝利の概念を再定義しないと、いつ戦争を終結させるべきなのかということが曖昧になってしまうため、アフガニスタンやシリア、イラクでの終わりの無い戦争を続けざるを得なくなってしまいます。

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