久しぶりに最終回を見ましたが、やっぱり泣いてしまいます。何十回も見ている最終回をちょい見しただけで何故泣いてしまうのか?これは、もはや、パブロフの犬のように、条件反射化してしまっているとしか言えません。パブロフの犬が、ベルの音色を聞くと、唾液が溢れ出してしまうように、フランダースの犬のラストシーンを見ると、涙が溢れ出てしまうというわけです。あの感動のラストーシーンは、パブロフの犬の実験に使われているベルと言え。条件反射的に見る人を泣かせてしまう、人の心の吟線に触れる何かがあるのかもしれません。
フランダースの犬とは
アニメ「フランダースの犬」のオープニングに、原作者ルイズ・ド・ラ・ラメーとなっているのですが、正確には、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー(Marie Louise de la Ramée)と言うみたいです。イギリス系フランス人作家ウィーダ(Ouida、ペンネーム)によって、1872年に発表された作品で、両親を幼いころに亡くした孤児のネロは、極貧の祖父に育てられ、二人でミルク運びをします。ミルクの配達途中でパトラッシュという大型犬を拾って、その犬にミルク運びをさせることにします。ネロにはアロアというガールフレンドがいて、彼女の父親はネロ達が住む村の大地主だったので、貧しいネロと、自分の愛娘が付き合っているのが許せませんでした。色々すったもんだがあった後、物語は、いよいよ悲劇の夜へと急展開を遂げます。
ネロとパタロッシュは天国へ旅立つ
アントワープ大聖堂(ノートルダム大聖堂、聖母大聖堂)内にネロが入って行き、シューベルトのアヴェ・マリアの曲が流れるあたりから、涙腺が次第に怪しくなってきます。愛犬パトラッシュが手袋を咥えながらネロに近付き、大聖堂の冷たい床に蹲るネロの頬を舐めます。寒さと飢えで、意識が朦朧としているネロは、最後の力を振り絞ってパトラッシュに優しく語りかけます。ネロの後を追ってきたパトラッシュも疲れ切っていて、ルーベンスの絵(キリスト降架)を見た後、ネロとパトラッシュは寄り添うようにして永遠の眠りにつきます。この後のアロアの行動も涙を誘いますが、讃美歌320番「主よみもとに近づかん」が涙腺を崩壊させます。
あまりにも絶望的なラストですが、しかし、ネロは心底満足してこの世から旅立つことができたので、ある意味、幸せだったとも言えます。飢えることも、虐められることも、蔑まれることもない、両親や大好きなおじいさんのいる天国へ行けたことは、ネロにとっては勝利とも言えるかもしれません。天使がネロとパトラッシュを天国へ運ぶシーンは、そのことを象徴しています。といったキリスト教的な意見や、ネロのような、あまりにも悲惨な事態を再び引き起こさないようにと、アロアが修道女になって、ネロのような貧しい孤児たちの面倒を見るようになった事で、ネロは報われたというような意見もあります。その通りだと思います。
ネロと火垂るの墓の清太は被る
日本のアニメだと、小学生高学年程度(10歳くらい)の年齢のネロですが、原作では15歳となっていて、なので、15歳にもなってあの生き方はどうなの?といったような、かなり厳しい意見があることも確かです。火垂るの墓の清太と比較する人もいて、清太もネロも、労働に対する意識が薄く、ネロは、実際のところ、絵なんか書いている場合じゃないのに、絵で身を立てようとして墓穴を掘り、清太は協調性の欠片もなく、身勝手に生きて墓穴を掘ったので、どちらも身から出た錆だといった、二人に対するかなり批判的な意見もあります。彼等は、パトラッシュも節子も、二人の夢想主義者の犠牲者だと言っています。この批判が的を射ているのかどうかは置いておくとして、ネロの15歳という年齢を考えた場合、もうちょっと違う生き方を出来なかったのかという疑問が残ることも確かです。アロアの父親のコゼツ旦那の、ネロは働きもしないで絵ばかり書いているといった批判は、かなり的を射ていると言えます。清太のおばさんが、何もせずにブラブラしている清太に対して言った言葉も、これに似ています。
フランダースの犬の最終回
フランダースの犬の最終回を見ると何故泣くのか?これは洋の東西を問わず、誰でも泣いてしまうみたいです。実際、このアニメを見ると何故ないてしまうのか?と疑問に思っている人もかなりいます。面白いと思った意見は、フランダースの犬のテーマは、子供の貧困で、客観的に見れば、ネロのような悲惨な境遇の子供に対する、世間のあまりの無関心さに、誰もが腹を立てますが、しかし、ほとんどの人間が、実際には、あの物語に出てくる無関心な大人たちだと言っていることです。日本も子供の貧困が深刻化していますが、フランダースの犬を見て泣く人間でも、ほとんどの人間は、目の前に実際にある子供の貧困に対しては目を向けようとはしません。ネロのような境遇の子供達がいたとしても、ほとんどの人間は、彼等の事を何とも思わないだろうし、親が悪い、自己責任で片付けてしまうのではないでしょうか。それにもかかわらず、フランダースの犬を見て泣く人間が多いことこそが、原作者が意図していたことなのではないでしょうか。日本のアニメが秀逸であるとも言えるのですが、原作者は、子供を絶望させるような環境を作り出してはいけない、子供を守るのは村全体の責任だと、そう言いたかったのではないでしょうか。そのような意見があることも確かで、フランダースの犬を見て涙を流した人は、現実社会に存在しているネロのような子供を何とかしようとすべきなのかもしれません。そうじゃないと、あの物語に出てくる大人たちを批判することはできません。